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伊藤孝英
院長
ロイヤルメルボルン工科大学健康科学部カイロプラクティック学科日本校卒業。B.C.Sc(カイロプラクティック学士), B.App.Sc.(応用理学士)。従来の筋骨格系障害としての腰背部痛から生物社会心理的要因としての腰背部痛へとシフトチェンジ。鬱や不安障害にも着目したマルチモデルで腰痛ケアを行っています。

カイロプラクティックの歴史

カイロプラクティックの歴史を書いています。

カイロプラクティックの歴史を解説しているページです。

先ずはカイロプラクティックの産みの親、ダニエル・デビッド・パーマーが19世紀後半に疑問を持ったことから始まります。

「なぜ同じベンチに座ったり、同じ家で暮らしていながら、病気になる人とならない人がいるのだろう?
同じ食事をし、同じ空気を吸っていながら、病気がちな人と健康な人がいるのはなぜなのか?」(Palmer,1910)

ダニエル・デビッド・パーマーはサブラクセーションという言葉を用いて、背骨の障害が病の根源であると説きます。この背骨が整っていないと神経障害を引き起こすと主張したのです。

19世紀の医学の状況

カイロプラクティックは基礎医学に基づいたヘルスケアの専門職と言われますが、その始まりは当時の医学のカウンターパート的な役割でもありました。

カイロプラクティックは1895年9月18日に誕生し世界に広がっていきましたが、この頃の社会はカイロプラクティックのような非正統派療法を容認する充分な下地がありました。

19世紀初期から始まっていた正規の医師の無謀で荒々しい治療に人々は困惑していました。外科治療や瀉血(しゃけつ=悪い血を抜く)が中心で現在のような消毒設備もないため敗血症になる事も多く、無意味な害の多い手術も批判の的であったようです。

また未知の病気には各種毒物や重金属を薬物と称して患者に使用していた為、痛々しい反応、中毒が頻繁に起きていたようです。

当時、医療を改革しようという動きは大きく2つあり、一つは生活改善指導であり一つは正統医学に対する代替医療の選択でした。これらは当時はいずれも正統医学が軽視あるいは無視していた事柄だったようです。

19世紀後半にはじまった代替医療の中で特に注目されたのはホメオパシー、オステオパシー、ナチュロパシー、磁気療法でした。

さて、カイロプラクティックが誕生したのは、場所はアメリカアイオワ州ダベンポートという港町。

もともと整骨師の仕事をしていたイタリア系アメリカ人D.D.パーマーが当時使用人をしていた黒人のハーベイ・リラードの背骨(第3胸椎と言われている)に異変を見つけます。

その異変を矯正したところ、ある奇跡が起きました。

その奇跡とはリラードの難聴が偶然にも治ってしまったこと。

この偶然の出来事がカイロプラクティックのはじまりだとされています。

当時のカイロプラクティック
1895年カイロプラクティックの誕生

もともと背骨の施術は、世界のほぼ全域で古来より腰痛や首痛のために行われてきました。

1説では関節の操作は日本の柔術から始まっており、柔術、柔道が世界に広がると同時に、関節操作も広まったという説もありますが、文献としてはヒポクラテスの時代から背骨の操作はされていたとあります。

現在では、医学的に脊椎マニピュレーションといいます。D・Dパーマーはこの時にこの脊椎マニピュレーションをもちいました。

この脊椎マニピュレーションは古来より多くの場合筋骨格障害の治療にもちいられていたのですが、ときには内臓疾患をなおすためにもつかわれていたようです。

記録に残っていて確認できるもので、西洋諸国では2500年くらい前から内科医も外科医も脊椎マニピュレーションをおこなっていたようです。

背骨の異変は、カイロプラクティック用語では「サブラクセーション」といい、背骨のアジャストを「脊椎マニュピレーション」といいます。

背骨にヒントがありそうだ

誕生は偶然に難聴が治ったことがきっかけですが D.D.パーマーは「人間のさまざまな疾病や症状は背骨の歪みから生まれるのではないか」という仮説のもと西洋医学の理論をもとに研究を続け学校教育を開始します。

1900年代初頭、この噂を聞きつけてアメリカ中からフロリダ州に生徒が集まってきます。

D.Dパーマー
カイロプラクティック創始者のD.Dパーマー
(カイロプラクティック総覧より)

教育は拡大していき息子のB.J.パーマーへと受け継がれます。

2代目B.Jパーマーの時代

この息子のB.J.パーマーは人生遍歴、奇行、際立ったカリスマ性を持つ男で、非常に雄弁家であったそうです。

良くも悪くもトップダウンの象徴のような存在で、自ら「天才的なカイロプラクター」を豪語し、不満を持つ人たちを冷淡に切り捨てていったそうです。

息苦しくなるような厳しい統制を実施する一方で、自分に忠実なスタッフや教員たちを育てあげたそうです。どのような業界でも急成長する時、このようなカリスマが牽引することはよくあります。カイロプラクティックもその絶対的なリーダーのおかげで急成長を遂げた業界であったようです。

B.Jパーマーは起業家として大きな夢を抱いており医学的にも当時の生物学、生理学、解剖学を発展させていきました。

B.Jパーマー
2代目のB.Jは企業家としての手腕も発揮(カイロ総覧より)

当時アメリカ医師会から「まぎれもなく現在最高の人骨コレクション」とお墨付きを得るほどの人骨が、骨学研究のために集められ、博物館を建設するまでになっています。

そしてX線実験室をつくり当時の医療施設の中でも一番立派なレントゲン施設であったようで上部頚椎脊柱管の湿式スライド標本を作製しています。(偶然ですがX線検査が発明されたのもカイロプラクティックと同じ1895年)

十分な医師と看護婦、完璧な診断実験室、内科治療セクションの併設という条件の上に、設備や施設もととのっていたのでアメリカ中東部でも屈指の病院であったようです。

また「クリア・ビュー・サナトリウム」という精神科施設を買い取り、パーマー大学の臨床実習施設として約20年間活用したようです。

企業という点においてパーマースクールには1920年米国内で2番目のコマーシャルラジオ局まで備えて、ラジオ放送までおこなっていたそうです。

ラジオ局で座る男性
いち早くコマーシャルラジオ局を取り入れている(イメージ図)

B.J.パーマーは背骨の中でも上部頸椎にとことん拘った治療を目指す

上部頚椎だけを治療するB.Jパーマーの理論は「ウルトラストレート」と呼ばれ、今でも少数ではありますが、彼の理論を継承しているカイロプラクターもいます。日本でもいます。

腰痛でも上部頚椎だけを治療するというスタイルは職人技そのものという感じがします。実際の患者さんの声を聴くとなかなか面白いストーリーが聴けるところも魅力的ではあります。

スポーツジムも併設されていたB.Jパーマーのオフィス

1940年ごろのB.Jパーマーのオフィスの一部です。カイロプラクティック治療の後に患者さんにトレーニングをしてもらっていたようです。

上部頚椎だけ施術をするという奇想天外な発想をだすB.Jでしたが、まさに21世紀に医療が提案している予防医学の観点から必要不可欠な’’運動’’を80年以上前に積極的にとりいれていたという先見の明があったようです。

BJのオフィス
カイロプラクティック生みの親の息子B.J.のカイロプラクティックofficeです。80年前程前でしょうか。(写真提供江崎器機)

思想の対立と分化

どんな組織でも思想的な対立があり、年代とともに分化がおこるのが世の常。カイロプラクティック業界でも1925年ころにそれが起こります。

当時カイロプラクティックは隆盛を極めており実にさまざまな業界から人材が流入してきます。正統派医学から、それを批判する側の人材もカイロプラクティックに携わるようになります。

おおきく2つにわけるとカイロプラクティック創始者の「純粋主義=手わざのみ」とより「幅広い業務=ミキサー」をのぞむ人々とに分かれていったようです。

業界内での政治紛争は激化していったようです。

カイロプラクティックの考え方も分かれていった
さまざまな考え方が生まれ、広がっていく

D.Dパーマーの顧問弁護士ウィラード・カーバーや、医師でホメオパス、オステオパシー学校での教育者でもあったA.Pデイヴィス、A・グレゴリーなど、それぞれがD.DパーマーやB.Jパーマーの唱えた理論に限界や矛盾を感じ異を唱えるようになっていきます。

私が面白いとおもうのは、医師アーサー.L.フォスターです。彼はB.Jと教育カリキュラム方針で対立しナショナル・スクールを設立している。そしてこんな言葉を述べています。(ナショナルスクールは現在のナショナル大学の前身で、現在では理工系大学卒しか入学できないカイロプラクティックのエリート集団です)

しかしながらパーマーは、大きな過ちを犯している。それも1度や2度ではない。あまりにもかたくなだった。

彼はすべての病いの原因が脊椎サブラクセーションにあり、どんな病気でも脊椎アジャストメントで治せると主張した。他の治療法を一切認めようとはせず、最後まで自分の信念を曲げなかった。

カイロプラクティック総覧より抜粋

当時も今もこのイデオロギー論争はつづいています。

私個人もこのアーサー・フォスターの意見に賛同します。

私がカイロプラクティックを勉強するきっかけとなった言葉のひとつにヒポクラテスの「病気の原因を知るためには脊椎を良く調べなさい」という言葉があります。

ヒポクラテス
医学の父といわれるヒポクラテス(wikipediaより)

「原因を知るため」に脊椎を調べるとたくさんのヒントがあるとおもいますが、マニピュレーションで病気が治るとは言っていないのです。

やがて大まかには背骨だけを治療する「ストレートカイロプラクティック」、上部頚椎だけを治療する「ウルトラストレート」、メディカルの知識や要素も取り入れながら背骨以外の構造力学にも着目する「ミキサー」と思想を分化させながら世界各地に広がっていき、現在では約20カ国でカイロプラクティックの大学教育が行われるようになっています。

基本的には背骨のアジャストメントをおこなうことで「自然治癒力が発揮される」という思想部分では共通しているのだと、私はおもいます。

カイロプラクティック教育が4年制度になるのはB.Jの死後

DDパーマーや、BJパーマーの思想に限界を感じたグレゴリーらは、周りがカイロプラクティックを単に金儲けだとみなす人が増える中で、カイロプラクティックの純粋性を死ぬまで貫いたようで、グレゴリーの功績がなければ学問的な基盤が確立されなかったであろうと言われています。

先にあげたパーマーの顧問弁護士だったカーバーは、カイロプラクティックを学んだ後に「生体力学の原理」を基にして、いわゆる構造理論を唱えた。(私自信もカーバー、ジェンシーの構造理論の系統の大学出です。)

それぞれの理論は団結をつくり、アメリカカイロプラクティック協会、ユニバーサルカイロプラクティック協会という二つの大きな団体組織を生み出します。

後にこの2つの団体は統一されますが、つぎにBJ の組織したインターナショナルカイロプラクター協会 ICAと対立するようになります。

このような対立は半世紀過ぎまでカイロプラクティック内部の構造に影響を及ぼし続けました。いまでもある意味では、対立構造が業界内にできています。

当時の国際カイロプラクティック学校及び大学連盟の組織の会議場で、学校関係者の一人はこう述べている。

我々は化学、細菌学、顕微鏡使用法などのために生徒の時間を浪費すべきではない。我々の時間は触診やアジャストメントのために使われるべきである。」

そのまんま

いまでは考えられない発言ですが、言わんとしてることは、カイロプラクティックの臨床に携わるとよく分かります。それでも大学在学中無意味に思われた発生学や薬理学、リハビリテーション、画像診断学などが役立ち臨床の幅が広がり続けるにも事実です。

当時カイロプラクティックは18ヶ月での学習期間で十分だとするのが一般的でした。今の日本の専門学校と同じような方向性です。

色々ありましてアメリカの医学会からは教育が不十分だということで、公的機関からの資金援助を受けていませんでしたが、1961年に BJ パーマーはこの世を去り、ようやく教育基準の一本化が実現の兆しを見せました。

この頃からアメリカにおける全てのカイロプラクティック学校で四年制度が始まったのです。オステオパシーが4年制の大学教育を始めてから40年後のことだそうです。

そう考えるとオステオパシーは凄いですね。いまでも研究の分野ではカイロプラクティックが出せない研究を数多く出しています。

このような大改革を行ったのはカイロプラクティックの反逆者と呼ばれたジョン J ヌージェント。彼はダブリン国立大学を卒業後カイロプラクティックを学ぶためにダベンポートへ来ています。ですからヌージェントの功績なくして今日のカイロプラクティック業界は無いと言えるでしょう。

当初はカイロプラクターはよく投獄されていた

1900年代初頭、つまりDDパーマーの頃、医師法違反行為によってカイロプラクターたちは投獄されるケースが多かったようです。医師法違反になるからです。

医師法違反の罪に問われたカイロプラクターはその後数十年間で何千人にも及んだようです。

裁判は半世紀以上続き、良く言えばキリストの受難にも似た初期のカイロプラクティックの歴史があります

医学界からは絶え間ない反対に遭い、化学生物学会からは全く無視され、公的機関からは学歴重視の声により締め出され、同じ代替医療からも妨害されるという事態に遭遇しながら、ついにカイロプラクティックは法的に認められた存在になったという経緯があります

患者たちからの信頼が政府を動かしたとカイロプラクター達は言い、それぞれの時代、情熱と行動を分かち合いながら20世紀後半に成熟期を迎え権利を勝ち取っていったのです。

現在は約40か国で法整備されたヘルスケアの専門職

現在では約40カ国で法制化され 各国では診断権を有するプライマリヘルスケアの一つとして地域の掛りつけ医のような存在です。

20世紀後半までカイロプラクティックは 頑なにプライマリヘルスケアのポジションを守ってきました。

しかし21世紀になってから医学の発展とともに統合医療という考え方が主流になったため、法制家されている国でも病院内の一部門として活動する流れも出てきています。

21世紀には本家のアメリカにおいても、カイロプラクティックが病院の中の一部門として活動するようになってきてもいて、統合医療という形で西洋医療の中に溶け込みつつあります。

この部分はカイロプラクティック業界の中では賛否両論ですが、極論としては各個人のイデオロギーも関わってくることなので、白黒はっきりつかない部分でありますが、少なくともカイロプラクティック業界のエゴにならないよう、患者さんにとってベストな選択肢の一つであることが一番大切なことだと個人的には思います。

反対派の意見は、オステオパシーが殆ど西洋医学に取り込まれしまったように、独自の哲学を失ってしまった二の舞いになるのではないかという懸念から生まれます。半面脊椎マニピュレーションの研究では数多くの優れた研究がオステオパシーからは出ているので判断が難しいところです。

カイロプラクティックもアイデンティティを保つことは重要ですが、固執しすぎると問題も生じてしまうのも事実です。私はサブラクセーションの概念の再規定が、一つのヒントになるだろうと考えています。

現状一番中道を行っているのが、デンマークのカイロプラクティック教育です。学生は医学部生として2年間基礎医学を受け、3年生に上がる時に、メディカル・ドクターになるのか、カイロプラクターになるのか選択するという教育システムになっています。(良さそうに見えるのですが、これはこれで問題もあるようです)

当院の位置づけ

当院は「ミキサー」で幅広い知見から判断していくものの、カイロプラクティックの根本的な考え方である「生気論」を基本的に大事にして対応していきます。

ミキサーの初志であるウィラード・カーバー 構造力学に着目したDr.ジェンシーの教育を受けてきています。(ナショナル大学系)

カイロプラクティックの特徴は(芸術)(科学)(哲学)の3つの要素で構成されていることです。

医学と異なり「哲学」の要素があることで、常にいろいろな角度から考えているのがカイロプラクティックの面白いところです。