「自分が糖尿病かもしれない」という危機感から「歩けば大丈夫」という結論に至ったのですが、歩くということを改めて考えるために、歩行に関する書籍を幾つか読んでみた。このページはフレデリック・グロ著、谷口亜沙子訳の「歩くという哲学」の感想とカイロプラクターの立場から言えることを書いています。
歩くモチベーションの幅が広がれば良いというのを想像していたが、結果的に「歩いているのが人間のデフォルト状態なので歩かない生活がおかしい」と思うようになった。
そのなことを考えていたら、世の賢者は歩くことをどう考えていたのかが気になり、何冊か本を読んでみた。
もともと我々が当然と思って過ごしている資本主義社会の限界、矛盾、人間とは何なのか?という問題が根底にあると考えているため「歩くという哲学」は思い切り刺さる本でありました。
「歩くという哲学」の中に哲学者たちの言葉が記されている。いくつか気になった文章をピックアップしてみます。
「歩けなくなったら終わりだ」「人間足腰が基本」と直立2足歩行を特徴とする人間の事を表すことばに足腰の重要性が説かれているものがある。健康面で言われがちだが、直立二足歩行が可能であるが故に大きな脳みそを持つことができた私達ホモサピエンス。
世の哲学者達は本当にいろいろなことを考えてこられたのだなあと、感服するばかりです。
哲学者は歩くをどう考えたていたのか?
詳しくは本を手に取って読んでいただきたいのですが、一部ピックアップしてご紹介します。
歩くことによって、人はアイデンティティという概念そのものから抜け出すことができる。何者かでありたいと思う気持ちや、名前や歴史を持ちたい持ちや、。名前や歴史を持ちたいと思う気持ちから解放される。
フレデリック.グロ
みんな自身のアイデンティティや社会的な立場、家族、振る舞い方などさまざまな概念の中で社会生活を営んでいます。それから解放されるといいます。
しがらみから解放されるのです。憧れますねえ。
座っている時間をできるだけ少なくすること。広々とした空気の中で、体を動かしながら作り上げられた思想以外は信じてはならない。筋肉までがその形成に参与をしていないような思想には価値がない。あらゆる偏見は内臓から生じるのだ。 尻を重くして座り続けること。繰り返すが、それこそが精神に対する本当の罪である。
ニーチェ
これは文筆家、哲学者であった故・池田晶子さんも似たようなことを書いておられました。ランニングをしている時に大きな発想がまとまると。
我々は書物の中に身を浸し、ページからの刺激なくしては思想を生み出すことのできぬ、あのような輩には属さない。われわれは。ひっそりとした山の中や海の近くで、道までが瞑想的であるような場所で施策を巡らせることなのだ。あまりにも多くの人が他人の本を読むことによって本を書いてきた。あまりにも多くの書物が図書館に漂う、わずかな、血の匂いを欲している。いったい一冊の本とは何において評価されるべきものだろうか。匂いにおいてである。さらにはまたこの後見るように足取りの軽さ。
身につまされる言葉ですねえ。50歳を過ぎていろいろ私なりに考えてきた時間もあったと思いたいのですが、全然考えてなかったなあと。このblog自身も私自身が考えて書いてある文章は少ない。統計学の感想文みたいなものだ。
なるべく歩くようにして、思いついたことを書いていくようにシフトチェンジしていきたいと思います。
散歩をすることは、ただうろうろと歩き回ることではない。とは言え、問題に突き当たったら、いつでも立ち上がって歩いてみることはできる。必ずしも遠くには行かず、手を後ろに組んで。傾きながら少しだけ歩いてみるのだ。体が動きだしたおかげで頭まで動き出したら。ふと難しい問題が解けたり、いい考えが浮かんだりしたら、すぐに机の前に戻ってきて、次に行き詰るところまでつづければいい。
なにかしら煮詰まったらPCを離れ、先ずは歩くことが大切なようだ。
散歩に行くということは、仕事に別れを告げることだ。本や資料を閉じて外に出る。外に出てしまえば。体は自分のリズムで動き、心は自由を感じる。つまり、精神が開いた状態になるのだ。右手の風景に惹かれるものがあれば、そちらの方を向き、その印象、左手の風景と組み合わせ、色のコントラストを楽しむ。細部から全体像へと視線を移す。色とりどりの服の人々でにぎわう。公園の小道をぬけてゆくならば、そちらの方へ目をやりもするが、特に頭は使わない。目はひとつの顔から顔へ、ワンピースから帽子へと滑っていくが、その都度、形を知ると捉えているだけだ。目に見える光景として差し出されているものから自由な構成を行うこと。想像力は印象と戯れ、自由な空想に導かれるままに印象を結び付けたり、再構成したりする。それは完全に無償である。
まとめるときに歩く時は、良い発想が出る、落ち着くという目的があって歩いている方も多いのかもしれないが、詞的な表現になれば上記のようになるのであろうか。あまりそこまで考えて歩いたことはないので、素敵だなとおもう。普段歩いていると「目線を合わさないように」とか「後ろの人との距離が」などとつまらんことを考えている自分が虚しい。
人間の精神の自由さを私自身も取り戻したいと思う。
魂のわずかな解放、悩んでいる奴ら 歩いてみよう
さらに。街中での散歩と自然の中での散歩を交互に行って、どちらか一方だけにしないことも大切だ。というのも、両者の根底には想像力の自由な戯れ。という同じものがあるが、それがもたらす良さは異なっているからだ。街の中の散歩道をぶらぶらと歩いて行くと、人間の行動というものがつくづく人それぞれであることがよくわかり、生きることについてのシェアを得られる。一方で小川が流れ、緑溢れるの山を一人で散歩していると誘われて行くを、色や形のささやきにぼんやりと気を取られながら、魂はわずかに自分を忘れ、それが故にまた自分を発見することになる。
われわれが忘れがちな魂という概念。カイロプラクティックの創始者DDパーマーも霊魂のことを書きのこしています。現代医学では触れないことが多いと思いますが、人類が数百万年続けてきた営み、概念ですから科学が発展した100年で失われるものでもないと思います。
山歩きなんかをすると全く違った精神状態になるのを体感している方も多いはず。生まれて来て死んでいくまでに、このような贅沢な時間を増やしたいものです。
散歩秘められた効能はこのように精神が開かれてあいた状態に置かれることであるが、これはとかく拘束やこだわりにとらわれがちな現代生活において極めて稀な状態と言える。あいた状態ということは、受動と能動の入り交じった。あの幸福な調和が実現されているということなのだ。魂は、誰に対しても申し開きをする必要がないし、発見や喜びを得ようとして、散歩が一つのメソッドでもあるかのように生真面目に散歩に取り組んでみたところで、まずうまくはいかないだろう。
この部分ですねえ。効率主義な現代ではメソッドとして歩く、目的として歩きがちだが、上記のように精神が開いた状態のような、魂が肉体を忘れるような状態を感じるのは論じられることは少ない。
享受できるのは春の陽射しに誘われて、やりかけの仕事もほったらかしにして、とりあえず先のことは考えないという誘惑に喜んで屈したものだけなのだ。そのようにしてみて初めて、そのひとときは無償のものとなり生の軽やかさを思い出し、魂が世界と自分とのあいだに自由な調和を見出すのを味わえる。
私達は科学技術の進歩で便利になればなるほど、歩かなくなっています。その時間が無駄だとか、パフォーマンスがなどと考えているうちは調和という感覚にはなれないのかもしれません。
「魂」の概念をひょっこりと持ち出したいものです。
それは散歩という技法によるくつろぎの技術なのだ。だが、そのrecreationは新たな創造にもなりうる。各街中では普段、私たちはパンを買ったり、メトロに乗ったりという実用的な目的で街を歩いている。そうした時に通りはただの通路になるので、足元を見ながら歩くことになる。道を歩く時には、もっと不確かで、ためらいがちな足取りで歩むという贅沢を自分に許すべきなのだろう。さしたる理由もないけれど、ゆっくりと目を挙げて道を歩きまわってみる贅沢。走ったり目的を思ったりせずに道を歩いてみると、その街を初めて見た人が見るような仕方で街を見ることになる。
ためらいながら、思い切って歩こうではありませんか。一日の歩数なんて気にせずに、自由に散策をするとで面白いアイデアや気づきが生まれてくるのだと思います。
カイロプラクティックは健康のケアをする職業です。思い悩んでいる方、運動不足の方が患者さんとして訪れれば、先ずは歩くことを勧めてみたいと思います。
とっても面白い本なので「歩くことの哲学」を是非読んでみてください。









