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カイロプラクティックの歴史

カイロプラクティックの歴史

1895年 アメリカフロリダ州で誕生

カイロプラクティックは1895年にアメリカ生まれた基礎医学に基づいたヘルスケアの専門職です。

カイロプラクティックは1895年9月18日に誕生しました。もともと整骨師の仕事をしていたイタリア系アメリカ人D.D.パーマーが当時使用人をしていた黒人のハーベイ・リラードの背骨を矯正したところ、ある奇跡が起きたことから始まります。

その奇跡とはリラードの難聴が偶然にも治ってしまったこと。

難聴が治ったことがきっかけ

カイロプラクティックの面白いところですが、難聴が治ったことからはじまっています

背骨にヒントがありそうだ

誕生は偶然に難聴が治ったことがきっかけですが D.D.パーマーは「人間のさまざまな疾病や症状は背骨の歪みから生まれるのではないか」という仮説のもと西洋医学の理論をもとに研究を続け学校教育を開始します。

1900年代初頭、この噂を聞きつけてアメリカ中からフロリダ州に生徒が集まってきます。

D.Dパーマー

カイロプラクティック創始者のD.Dパーマー
(カイロプラクティック総覧より)

教育は拡大していき息子のB.J.パーマーへと受け継がれます。

2代目B.Jパーマーの時代

この息子のB.J.パーマーは人生遍歴、奇行、際立ったカリスマ性を持つ男で、非常に雄弁家であったそうです。良くも悪くもトップダウンの象徴のような存在で、自ら「天才的なカイロプラクター」を豪語し、不満を持つ人たちを冷淡に切り捨てていったそうです。

息苦しくなるような厳しい統制を実施する一方で、自分に忠実なスタッフや教員たちを育てあげたそうです。いまの時代であったらこのような統制はできないでしょうね。

しかしその絶対的なリーダーのおかげで急成長を遂げた業界であったようです。B.Jは起業家として大きな夢を抱いており生物学、生理学を発展させていきました。

B.Jパーマー

2代目のB.Jは企業家としての手腕も発揮(カイロ総覧より)

アメリカ医師会から当時「まぎれもなく現在最高の人骨コレクション」とお墨付きを得るほどの人骨が、骨学研究のために集められ、博物館を建設するまでになっています。

そしてX線実験室をつくり当時の医療施設の中でも一番立派なレントゲン施設であったようで上部頚椎脊柱管の湿式スライド標本を作製しています。

十分な医師と看護婦、完璧な診断実験室、内科治療セクションの併設という条件の上に設備や施設もととのっていたのでアメリカ中東部でも屈指の病院であったようです。

また「クリア・ビュー・サナトリウム」という精神科施設を買い取りパーマー大学の臨床実習施設として約20年間活用したようです。

企業という点においてパーマースクールには1920年米国内で2番目のコマーシャルラジオ局まで備えて放送までおこなっていたそうです。いやはや大きなスケールですねえ。

ラジオ局で座る男性

いち早くコマーシャルラジオ局を取り入れている(イメージ図)

B.J.パーマーは背骨の中でも上部頸椎にとことん拘った治療を目指す

上部頚椎だけを治療するB.Jパーマーの理論は「ウルトラストレート」と呼ばれ、今でも少数ではありますが、彼の理論を継承しているカイロプラクターもいます。日本でもいます。

腰痛でも上部頚椎だけを治療するというスタイルは職人技そのものという感じがします。実際の患者さんの声を聴くとなかなか面白いストーリーが聴けるところも魅力的ではあります。

スポーツジムも併設されていたB.Jパーマーのオフィス

1940年ごろのB.Jパーマーのオフィスの一部です。カイロプラクティック治療の後に患者さんにトレーニングをしてもらっていたようです。

上部頚椎だけ施術をするという奇想天外な発想をだすB.Jでしたが、まさに21世紀に医療が提案している予防医学の観点から必要不可欠な’’運動’’を80年以上前に積極的にとりいれていたという先見の明があったようです。

BJのオフィス

カイロプラクティック生みの親の息子B.J.のカイロプラクティックofficeです。80年前程前でしょうか。(写真提供江崎器機)

 

思想の対立と分化

どんな組織でも思想的な対立があり、年代とともに分化がおこるのが世の常。カイロプラクティック業界でも1925年ころにそれが起こります。

当時カイロプラクティックは隆盛を極めており実にさまざまな業界から人材が流入してきます。正統派医学から、それを批判する側の人材もカイロプラクティックに携わるようになります。

おおきく2つにわけるとカイロプラクティック創始者の「純粋主義=手わざのみ」とより「幅広い業務=ミキサー」をのぞむ人々とに分かれていったようです。

業界内での政治紛争は激化していったようです。

カイロプラクティックの考え方も分かれていった

さまざまな考え方が生まれ、広がっていく

D.Dパーマーの顧問弁護士ウィラード・カーバーや医師でホメオパス、オステオパシー学校での教育者であったA.Pデイヴィス、A・グレゴリーなどそれぞれがD.DパーマーやB.Jパーマーの唱えた理論に限界や矛盾を感じ異を唱えるようになっていきます。

私が面白いとおもうのは、医師アーサー.L.フォスターです。彼はB.Jと教育カリキュラム方針で対立しナショナル・スクールを設立している。そしてこんな言葉を述べています。

しかしながらパーマーは、大きな過ちを犯している。それも1度や2度ではない。あまりにもかたくなだった。彼はすべての病いの原因が脊椎サブラクセーションにあり、どんな病気でも脊椎アジャストメントで治せると主張した。他の治療法を一切認めようとはせず、最後まで自分の信念を曲げなかった

当時も今もこのイデオロギー論争はつづいていますが、当時はエスカレートしていたでしょうから考えるとゾッとします。

私個人もアーサー・フォスターの意見に賛同します。私がカイロプラクティックを勉強するきっかけとなった言葉のひとつにヒポクラテスの「病気の原因を知るためには脊椎を良く調べなさい」という言葉があります。

ヒポクラテス

医学の父といわれるヒポクラテス(wikipediaより)

「原因を知るため」に脊椎を調べるとたくさんのヒントがあるとおもいますが、マニピュレーションで病気が治るとは言っていないのです。

背骨だけを治療する「ストレートカイロプラクティック」、上部頚椎だけを治療する「ウルトラストレート」、 メディカルの知識や要素も取り入れながら背骨以外の構造力学にも着目する「ミキサー」と思想を変化させながら世界各地に広がっていき現在では約20カ国で大学教育が行われるようになっています。

こまかいところですが、基本的には背骨のアジャストメントをおこなうことで、自然治癒力が発揮されるという部分では共通しているのだと、私はおもいます。

カイロプラクティック教育が4年制度になるのはB.Jの死後

このグレゴリーらはは周りがカイロプラクティックを単に金儲けだとみなす人が増える中で、このグレゴリーらはカイロプラクティックの純粋性を死ぬまで貫いたようで、グレゴリーの功績がなければ学問的な

先にあげたパーマーの顧問弁護士だったカーバーは、カイロプラクティックを学んだ後に生体力学の原理を基にしていわゆる構造理論を唱えた。(私自信もカーバー、ジェンシーの構造理論の系統の大学で学びました。

それぞれの理論は団結をつくり、アメリカカイロプラクティック協会、ユニバーサルカイロプラクティック協会という二つの大きな団体組織を生み出します。

後にこの2つの団体は統一されますが、つぎにBJ の組織したインターナショナルカイロプラクター協会 ICA と対立するようになります。

このような対立は半世紀過ぎまでカイロプラクティック内部の構造に影響を及ぼし続けました。

 

それぞれの主張するものらがアメリカ各地へ学校を設立していた朝食を食べたパーマの弁護士をしていたカバーはオクラホマからワシントンデンバーニューヨークまで手を広げた一方 BJ の哲学進歩者だった女医評判はブラディ昼から3ブロック離れたところにライバル校ユニバーサルカレッジを設立後ワシントンの学校やピッツバーグのカレッジの運営を任された。

 

当時の国際カイロプラクティック学校及び大学連盟の組織の会議場で学校関係者の一人はこう述べている我々は化学細菌学顕微鏡使用法などのために生徒の時間を浪費すべきではない我々の時間は触診やアジャストメントのために使われるべきである

 

この本は誰も異論を唱えなかったので BJ パーマーの考えが42で近くも改革を送らせたようです当時カイロプラクティックは18ヶ月での学習期間で十分だとするのが一般的でした

 

色々ありましてあの医学会アメリカの医学会からは教育が不十分だということで公的機関からの資金援助を変えるプラクティックは受けていませんでした今日本もそういうような状況ですねそして業界の改革キャンペーンを続け小規模の合併交渉学校の個人所有から非営利組織への改定カリキュラム手順書の作成教育院充実治療機会の拡大などに努めました

 

1961年に BJ パーマーはこの世を去りようやく教育基準の一本化が実現の兆しを見せましたこの頃から全ての学校で四年家庭が敷かれました。

 

オステオパシーは44年制の大学教育を始めてから40年後のことだそうです

 

このような大改革を行ったのはカイロプラクティックの反逆者と呼ばれたジョン J ヌージェントはダブリン国立大学を卒業後カイロプラクティックを学ぶためにダベンポートへ来ている

 

1900年代初頭から維持法違反行為によってカイロプラクターたちは投獄されるケースが増えてきていた

医師法違反の罪に問われたカイロプラクターはその後数十年間で何千人にも及んだ

 

俺の裁判は半世紀以上続きは良く言えばキリストの受難にも似た初期のカイロプラクティックの歴史があります

 

医学界からは絶え間ない反対に遭い化学生物学会からは全く無視され公して機関からは学歴重視の声により締め出され同じ治療会のた歯からも妨害されるという事態に勅命しながらついにカイロプラクティックは法的に認められた存在になったという経緯があります

 

患者等信頼が政府を動かしたとカイロプラクター達はそれぞれの時代の情熱と行動を分かち合いながら20世紀後半に成熟期を迎える権利を勝ち取っていきました。

 

 

 

現在では約40カ国で法制化され 各国では診断権を有するプライマリヘルスケアの一つとして地域の掛りつけ医のような存在です。

20世紀後半までカイロプラクティックは 頑なにプライマリヘルスケアのポジションを守ってきました。しかし21世紀になってから医学の発展とともに統合医療という考え方が主流になったため、法制家されている国でも病院内の一部門として活動する流れも出てきています。

21世紀には本家のアメリカにおいても、カイロプラクティックが病院の中の一部門として活動するようになってきています。統合医療という形で、相談者によりよい医療を提供する一分野という扱いになってきています。

日本では統合医療そのものを否定する声もありますが、例えばデンマークのカイロプラクティック教育は、医学部生として2年間基礎医学を受け、3年生に上がる時に、医者になるのか、カイロプラクターになるのか選択するという教育システムになっています。

当院の位置づけ

当院は「ミキサー」で幅広い知見から判断していくものの、カイロプラクティックの根本的な考え方である「生気論」を基本的に大事にして対応していきます。ミキサーの初志であるウィラード・カーバー 構造力学に着目したDr.ジェンシーの教育を受けてきています。(ナショナル大学系)

カイロプラクティックの特徴は(芸術)(科学)(哲学)の3つの要素で構成されていることです。

医学と異なり「哲学」の要素があることで、常にいろいろな角度から考えているのがカイロプラクティックの面白いところです。

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